熊本でメダカとトゥーラン

メダカとゴルフトゥーランに癒されている日々

【熊本地震】震度7・益城町住民の備忘録

まさか熊本で、それも益城町で大きな地震が起きるとは思ってませんでした。経験を忘れないために、走り書きですが備忘録として残したいと思います。

<4月14日>

・21時26分、熊本市で仕事中に前震発生。益城町の自宅には、妻、長男、長女(7ヶ月)の3人のみ。

・電話がつながらず、とりあえずLINEでメッセージを送る。ほどなくして、「隣家の人と避難して無事」とメッセージが届き一安心。

・23時30分ごろ仕事が終わり、家族が避難した益城町総合体育館へ向かう。停電で自動販売機が使えないとのことで、飲料水を買い込み向かう。

・ガソリンスタンドに多くの車。余震もあり危険かとも思ったが給油。

・翌0時すぎ、渋滞の中で大きな余震。対向車線で同じく渋滞中のコンテナ車が、こちらに倒れてくるかと思うほど大きく揺れる。

・渋滞を避け回り道を選ぶが、道路陥没などで通行止めの場所もあり体育館への道が見つからない。益城町役場近くに車を止め、徒歩で体育館へ向かい家族と合流。

九州産業交通の路線バスが数台やってくる。木山営業所に帰れなかったとのこと。どの道から来れたかを尋ね、車を取りに戻る。

益城町惣領-飯野経由で体育館に到着。日が明けるまで車中泊した。ヘリと赤色灯、サイレンの音でほとんど眠れず。緊急車両、自衛隊車両が続々とやってくる。

<4月15日>

・6時前に体育館にトイレに行くと、非常用のパンの配布があっており3つ貰う。やわらかく、うっすらレーズン味で美味しいが、水分がないと飲み込みにくい。

・夜が明けたので、自宅へ食料や着替えなどを取りに戻る。カーポートや塀に亀裂はあったものの家にヒビなし。家の中はテレビなどが散乱していた。

・スーツケースや大き目のバッグに着替えや食料(封が空いていない冷凍食品)などを詰め込み、熊本市の妻の実家へ避難。

・仕事が休みになったため、午後からもう一度自宅へ荷物を取りに戻る。

・前日寝ていないため早めに就寝。

<4月16日>

・1時25分、親子4人で寝ていた中で本震発生。

・バッグ1つと子供用の毛布を持って、避難所へ向かう。道に出たとことで、東海大の学生に「うちの大学に一緒に避難しませんか」と声を掛けられる。

・学生は入学したばかりで道に明るくないようで、狭い道を誘導される。暗く、瓦などが散乱しており、余震などで危険を感じる。=避難は大きな道が良いようだ。

東海大九州の人工芝サッカーグラウンドに無事避難。運動会で使うようなテントがはってあり、その下に入る。人工芝なので、座っていても痛くなくて助かる。

・3時過ぎると冷えだし寒い。東海大九州女子バスケの子が、毛布を持ってきてくれて暖を取ることができた。とてもありがたかった。子どもたちは爆睡。

・夜が明け車に戻る。100円パーキングに止めていたが、熊本市も停電になっており精算できない。車止めも上がったまま。管理会社に電話すると乗り越えていいとのこと。「ブロックを踏み台にしたほうがよい」とのアドバイスを受け、あたりを見回すと看板の重しになってるブロック発見。同じ状況だった若い女の子2組が勢いよく取りにいってくれた(笑)。女の子たちとおばちゃんと協力してみんなの車を脱出できた。

・停電で自動販売機も動かず、コンビニ含め店はほぼ閉店。飲み物、食べ物もなく、紙おむつもなくなりそうだったが、買うこともできない。このときが一番きつかった。

・避難所にしか物資がないと判断し、益城町保健センターに避難する。グランメッセ熊本と迷ったが、妻が子どもがいるので保健センターがいいと提案。あとでグランメッセが公式な避難所でないと知った。

・保健センターにつき、飲料水とおにぎりを入手。おにぎりは塩の味すらついていない。味千ラーメンの炊き出しがあり、1時間半ならび1杯もらう。3人で1杯だったが、温かさと塩分が体に染み渡る。列に並んでいるときの「隅っこで食べよう」との会話が聞こえる。「列に並べないお年寄りの前で食べきらんけん…」と。

・遅く来たため保健センター室内は満室。しばらく外で過ごしたが、少し人が減り、児童館内にスペースを確保できたため移動する。一息つけるかと思いきや、益城町役場の建物が危険になり、対策本部を児童館に設けるという。児童館内にとどまることができなくなり、再び外で過ごす。

合志市の親戚宅がライフランが無事とのことで移動することを決める。妻、子どもを預け出社。寝不足のまま仕事をなんとかこなす。会社におにぎりの炊き出しがあり、食事は取れた。でも肉や塩辛いものが食いたい。妻、子ども、親戚らは近くの公園で車中泊したという。

<4月17日>

・0時ごろ仕事が終わり、翌朝は10時から出勤予定。車中泊をしようと思うが、人が少ないところは怖く、ある程度勝手知った場所がよいので、熊本市東区役所へ向かう。区役所前の道に車中泊の列ができており、最後尾につけて就寝。

・10時前に出社。ホームセンターダイキが営業しており、甘酒を見つけて購入。18時ごろ退社。合志市親戚宅へ向かう。

・東バイパス下南部のセブンイレブンが、通ったタイミングで再開。食パンを購入。

・親戚宅でおにぎりと小さいハンバーグを食す。ひさびさの肉が旨い。

熊本市の妻実家の停電が復旧していたため、そちらへ移り就寝することを決める。

・翌日は夜勤だったが、昼勤務への変更連絡が来る。妻子を避難所に送って出社する予定が狂う。その旨を会社へ伝え、会社で妻子が待機できる場所の確保ができないか直談判。しばらく後、OKをもらう。

<4月18日>

・妻子を会社に連れて行く予定だったが、山鹿の親戚宅に来れば?迎えに行くよと連絡が来たため、そうすることに決め出社する。

・朝10時前に出社。妻子は親戚の車で山鹿へ。

・昼食はおにぎりと少しの惣菜のみ。19時過ぎに退社し山鹿へ向かうも、高速道路閉鎖の影響で大渋滞。抜け道を通ったのに21時ごろに到着。

・親戚宅でチキンカツを食す。本震後、初めての普通の食事。初めての湯船にも漬かり就寝。この時点で、食事と風呂を満たすことができたのはかなり良いほうだったと思う。罪悪感も少しあった。

<4月19日>

・午前中、山鹿市内へ買い物。品切れはあるものの、食料品や惣菜もあった。

・午後から出社。体力が回復したので仕事がはかどる。深夜に仕事を終え、グランメッセ熊本車中泊。駐車場は満車。軽に数人いたり、ミニキャンプっぽい人も見かける。

<4月20日>

・7時前に自宅に帰る。自宅へ続く住宅街の道は、瓦礫が脇に寄せられ、凹んだ部分には砕いた瓦礫で埋められ車が通れるようになっていた。妻の車を幹線道路脇の駐車場まで移動させる。

・9時ごろ、同じ益城町の実家を確認に行く。築100年超なのに建っていた。数年前に葺き替えた屋根も無事、亀裂などあり一部損壊か。ただ、基礎が石なのでどうなんだろ?

益城町惣領のコンビニに、地震後初の弁当が届き昼食で食べる。

・自宅から追加の衣料を取り出し、山鹿へ。

<4月21日>

・昼食を食べた後、自宅へ。停電復旧地区なのに、近所数軒が復旧しておらず九電に電話を入れる。

・夕方から出社。深夜に終わり会社の駐車場で車中泊。6時に起き、ばってんの湯に入りに行く。少し行列ですぐには入れなかった。

<4月22日>

・朝から自宅の片付け。散らばったものを種類ごとに箱に入れただけ。でもだいぶ片付いた。

・応急危険度判定で「緑紙」が貼られる。

<4月23日>

・電気復旧。夜滞在することができるようになり、夜勤のときは車中泊をやめ自宅で泊まるようになる。ただ、隣1軒を除き留守のため怖い。余震よりも、強盗などが来ないか心配。廊下の電気をつけたまま寝る。電気がくるとやれることが格段に増える。

 ・妻子が熊本市の妻の実家に戻る。

<それ以降>

益城町の水道復旧に時間が掛かると判断。熊本市の妻実家そばに駐車場を2カ月分借りる。

・水道は5月2日に復旧。飲料不可だが、トイレの心配不要に。

・水道復旧にあわせて、プロパンガスの修理を依頼。即日対応で、5月2日に風呂に入れるようになる。

・5月7日、ボランティアさんに来てもらい、倒れたブロック塀を砕いて庭の隅に片付けてもらう。本当に助かった。庭が綺麗になり、1ステップ進んだ感じ。

・何度か自宅に宿泊し、妻子もなれたため5月10日ごろ自宅へ戻る。同じころ水道も飲料可能に≪避難生活終了≫。少し遅れて隣家も戻る。

・5月10日、地震保険の査定。

・5月19日、ブロック塀のがれきを、災害ゴミ置き場に搬送し終える。

・インフラはすべて整ったが、幹線道路に行くまでの道には、被害を受けた家や倒れ掛かったブロック塀、土むき出しの斜面があり、大きな余震があったときに避難できるか心配。

 

-----------------------------

16~18日が本当にきつかった。今後、罹災証明をとりに行く予定です。